言葉を正しく使おう その②

本の話

1ヶ月前、まだブログを始めて間もない頃(当然今も間もない)、言葉を正しく使おうと題して1つ記事を書いた

『言葉を正しく使おう その

しかし、かたや昨日は『星の王子様』の回で「言葉はいつも誤解のもとなんだ」といったばかりだが、だからこそ正しく言葉を使わなければいけないという風にも思う。

その言葉の中でも、人間が生きていく上で避けて通れない『謝罪』について考えてみようか。

年を重ねるごとに、素直に謝ることって難しくなるんだよなあ。

今回もこの本から勉強させていただこう。


謝罪をするということは何をすることなのか

子どもに謝ることを教えることは難しい。

何か悪いことをした時や相手を傷つけてしまった時は、『ごめんなさい』と言うんだよ。と教えると『ごめんなさい』ということだけは言えるようになる。確かにそうだ!

しかし、今度は『ごめんなさい』って言ったもん!

という具合になってしまうのは皆さん経験するところではないだろうか。

そうなのだ、必ずしも謝るということでは済まないこともある。
いわば『すみませんでは済みません!』状態となる。
そこで著者は問いかける、ということは謝罪するということは一体何をすることなのだろうか…。

なるほど、これはとても良い問いであり、考える価値のある内容だと思うのだ。

謝罪をするということは◯◯である

表面上だけで謝罪をするということが良くないということは理解できるが、謝罪するということはどういことなのか?
著者はこう言っている。

『当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているのかを表明すること』

  • 深々と頭を下げること
  • 土下座をすること
  • 涙を流すこと

こう言った態度で謝罪するという行動は本当に反省しているという態度であると感じさせがちだが、これらの行動もフリである可能性がある以上は謝罪するという本質とは異なると著者は言う。

いくら謝ったとて、フリかもしれないからそれじゃ本当に謝罪したとは言えないよね。
厳しいけど、確かにその通りだ。

そして筆者は、こういった行動は『あくまで謝罪することのスタートラインである』という。

いや〜ますます厳しい。

そして、その後は自身がしてしまった行為や行動について、自分が◯◯のように認識し、△△のように行動すると約束することが自身の申し訳ないと思う心を証明することになるのだ。

何か大切な品物を壊したり、生き物の命を奪ってしまったりした場合は、元通りに復元することは不可能である。
それでも自身がしてしまった行為を後悔し、責任を感じているのであれば、どうにかして『償い』に相当する行為を行おうとするであろう。

謝罪は対話の実践の一環である

上記で見てきたように、謝罪するということは、認識の表明約束の実践として特徴付けられそうである

謝罪するということ

①当該の出来事をいまの自分がどういうものとして認識しているのかを表明すること
②その認識に帰結として、これから自分が何をするか約束すること
③それを実行していくこと

この過程を実践していくことが謝罪するということと著者は定義してくれている。

話を始めに戻すと、子どもに謝ることを教えるということは、

単に『ごめんなさい』と言わせることではなく、

子ども自身が、自分が何をしてしまったのかということを認識し、それに対して自分がこれから何をしていくのかということを、徐々にでも表現できるように促し、我々大人もそれに応えてあげるということで結論づけられている。

皆さんもお気付きだと思うが、これは単に子どもに限ったことではない。
自分も含めて社会人でも、人に謝罪しなくてはいけないシチュエーションが数多く存在する。

部下に、子どもに、そして自分自身にさえ、謝るということはどう言うことなのか、しっかり伝えられるように自分でも意識して言葉と行動を磨いていかないといけないと思う。

立場上、部下にも子どもにも良くないことは良くないと指摘しなければいけないことが発生する。

反射的に『済みません』『申し訳ないです』言っていることくらい、こちらも気付く。


ただ、いつも思う。
そう言われると、それ以上こちら側がどう言っていいか分からなくなっていた。
これは、今後の振る舞いに一つ参考になりそうだ。

電気を付けっ放しにしてしまったこと、お風呂掃除を忘れてしまったこと、まずは妻に謝罪しよう。

参考文献

『いつもの言葉を哲学する』 
古田哲也 著/朝日新書

コメント

タイトルとURLをコピーしました