正しい言葉を使うこと。
それは文章を他人に読んでもらうことの基本であろう。それを生業にしているわけではないが、時にそれに関わることがあるため最近読んだ本で考えさせらた内容を紹介。
私と言葉との関わり
マインドフルネスを目指す話をしたのに全然そこまで辿りつかない…。
4回目の投稿にて路線変更か?
そもそもはっきり決まってないのだから良しとしよう。
誰の許可もいらないはずだ。
さて。今日の話は言葉。
仕事で定期的に原稿の依頼を受けることがある。実にありがたいことだ。
しかし、うまく書けない。
当然だ。高校の現代文は3だった。
誰の目にも止まらないかもしれないけれど、こうやってブログを書いていく上でなるべく正しい言葉を使いたいと思っている。
特に原稿なんてのは公に出ちゃって、お金までいただくわけだから尚更ちゃんとしなければいけない。
しかし、上司のチェックや校正の度に稚拙さを痛感させられている。
(本業ではないにしてもだ)
先日、本屋を物色しているとこんな本に目が止まった。
『いつもの言葉を哲学する』
古田哲也 著/朝日新書
なかなか興味をそそるタイトルだったので、手に取ってみた。
日本語におけるやさしさと豊かさ
外国人が日本語を学習する際に多くの壁に阻まれるという話はよく耳にする
日本語の語彙の多さ、文法の複雑さなど確かにそうだと思う。
そして、本書でも書かれていたのが日本語における『やさしさ』と『豊かさ』の話。
やさしい日本語
言語の簡素化と平明化をすることで外国人などのノンネイティブにとって習得や理解がしやすい日本語のことである。
本来、日本語には一つの動作を表す言葉にも複数の表現方法があり、たとえば『走る』『駆ける』の二つの言葉も我々日本人であればニュアンスの違いや適切な使い分けが感覚的にできるであろう。
しかし、言葉を話し始めた子供やノンネイティブの日本語学習者にとっては難しいだろう。
こうした複雑性をシンプルにしていくという話であり、確かに一理あると素人でも思う。
『日本語の豊かさ』
しかし、一方で簡素化することで起こりうる弊害も考えなければいけない。
さきほどの『走る』『駆ける』を一つの新たな言葉で再定義してしまうと、『走る』という言葉から派生している表現も同時に使えなくなってしまう。
例えば、痛みが走る、感情に走る、筆が走る、など実際に動作としての『走る』以外に表現できる日本語がたくさんさることに気づく。
駆けるであれば、走るよりもよりスピードをリアルに感じる、
馬が草原を駆ける。などが表現できなくなる。
『この複雑さのなかから迷いながらでも適切な言葉を選びとること自体が、思考という重要な要素を成している』
こういった豊かさを大切にすることが、表現力や思考力を育む大切な要素なのだろう。
『やさしさ』と『豊かさ』は対立するものではなく、この二つの緊張関係を維持することが重要だそうだ。
最後に
いや〜面白い!
最近は、ビジネスシーンでは、相手に伝えるためにはこうだ!みたいな方法論がもてはやされ、ベストセラーも多数。
(私もこの手の本を読んで参考にしている)
こういう、当たり前のことを改めて考えて、本質を知ることの大切さもとても勉強になったのである。
こう言うことを家族や部下などに話すと、また煙たがられるのは目にみえている。
特に一番近い妻はこの手の話には全く興味がないようだ
ふ〜ん。
で?
……。
ただ、本書を読んでとても共感した私のように、日本語をちゃんと知って正しく使いたい方々もきっといる。
そんな人には一読の価値あり。
正しく言葉を扱える人間になりたい。まだまだ遠いな…。
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